しのだちぃ

元アートディレクターです、独自のイラストを添えて連日更新しております、、

父に放った悔やまれる一言、、




わたし、今となっては
到底取り返しのつかない苦い出来事があります、、
それは、わたしが中学を出たばかりのころ、
当時わたしは高校に行かせてもらえなくて、
工場で働きながら夜学に通っていた、、


忙しい時は学校が終わってから、
工場は家から近いこともあって、わたしは夜勤として
また勤めることもしばしばあった、、


出来事とは、それは夏の夜勤明けの日ことで、
わたしは疲れて布団に潜り込んでも眠れずにいたとき、
父は職場の同僚である数人を家に連れてきた、
わたしの家で、また飲むつもりだったみたいで、
酔った勢いで玄関先で大声で騒いでいた、、





わたしは疲れて眠れない、その気持ちが咄嗟に出て
「あ~、うるさい、よそで喋ってよ!、」
と考えなしに声を張り上げて言ってしまったのです、、


そうすると「あ、たぁちゃん、やはり他へ行こうよ、」と、
オジサンの声がして、みんなで何処かに行ってしまった、、
わたしは、ウトウト眠りについたばかりで、
それがどういう状況だったのか、
当時のわたしには理解することもなかった、、


それから数日経っても、
やさしい父はわたしに怒ることはしなかった、、
父は呑み助だけど無口な性格でだったけど、
何度も溝に嵌って帰れずに呼び出しがきたりもした、、
そんな父とわたしは、ゆっくり話しをした記憶はない、、


父は、わたしと一回りも年が違う兄と将棋を打つのが、
毎日の楽しみだったようでもあった、、
父はすごく器用で、いくつもの仕事で駆け回っていたのに
何で家がこんなに貧乏なのか、
当時のわたしには到底理解できなかった、、




それを知ったのは、わたしが6歳のころ、、
よくはわからないけど、
保証人として借金の肩代わりを背負ったらしい、、


母は、幼いわたしをダシにして借金巡りをしたと思う、
よその小母ちゃんは、わたしを見ながら、
母と話すやり取りでそれが理解できたようだった、、


当時、わたしたち家族は、
炭鉱の町の古びた長屋に住んでいて雨が降れば、、
わたしは天井を見上げ、落ちてくる雨水の下に洗面器や
ヤカンなど正確にその位置に置いて、
畳に雨の雫が跳ねないようにしばらく見ていた、、



玄関のガラスもひび割れたままの状態で、
わたしは母に言われ和紙を花形にして割れ目に貼ったりもした、、
絵具もノートも買えなかったわたしは中学を出ると
姉はわたしに夜間の高校に行く道を教えた、、


今思えば、わたしはよその子に比べると、
わたしは何も知らなかった、ただ大人と働く毎日で、
姉がすべての頼りに思えて、いつも姉の行動に目をやった、、


わたしは家にいくらかのおカネを食費として入れた、、
父も母も、そんなわたしに負い目を感じてか、
中学を卒業してからは、わたしに何も言わなかったし、
わたしが家に帰らなくても何も言わなかったことで、
それが、ふつうの家庭のあり方だとわたしは思っていた、、


父は生真面目で騙されやすい性格だったと思う、、
その父の性格は、唯一わたしだけが受け継いでいる
「アンタだけが、その手に才能を持っているから
ぜったいに一人でも生きていける、、」と母と兄姉が
いつもわたしをお煽て上げるのが日常だった、、


わたしは母の高齢出産の子で、
わたしは長兄を慕うけど、ひとまわりも年が離れて、
兄はわたしを遊び相手として嫌った、これは仕方ないこと、、
もう少しだけでいい、
みんなと同じくらいの暮らしができたらと、
わたしは親にそれを言いたかった、だけど言えなかった、、


父も母も兄も姉も他界してしまった今、わたしは一人、、
そんなわたしは、あの時父に向けて
「あ~、うるさい、よそで喋ってよ!」の一言が
今でも、すごく悔やまれるのです、、


いつの日か納骨堂にいくことがあれば、
その時、わたしは父に手を合わせて、
あの時はごめんなさい、と一言謝るつもりです、、





Cœur de pirate - La vie est ailleurs (Version officielle)


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